託児サークル「マミーズファミリー」を始める決意

今では、24歳と22歳の娘がまだ2歳とハイハイの頃…。上の娘は、ほとんど手のかからないおとなしい子。
ところが、下の子は、夜泣きはする、それも大きな声で!ミルクは飲まない!いつも機嫌が悪い!あと30分夫の帰りが遅かったら、私たち親子はどうなっていたかわからない…という生活を送っていました。

そんな中、とうとう、病気をしたのですが、通院をするのにも預かってくれる身内はなく、まだ保育所での一時保育もない頃だったので、預かり保育をしていた街の託児所を訪ねてみました。
しかし、中が見られないところで、娘を渡さなければならず、とうとう預けることができませんでした。

そんなある日、近くに住んでいた友人が「預かってあげるから、病院に行っておいでよ。
ついでに買い物もしてきたら…?」と、2人の娘を預かってくれたのです。
このとき、街をひとりで歩いていたら、「私にも、前にはこんな時があったんだ…」とハラハラ涙が出て止まりませんでした。

その帰り道、「そうだ!」こうやって、私のように困っている人がいるはず、と友人たちに声をかけて、託児サークル「マミーズファミリー」を始める決意をするのです。

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理由を問わないで預かるシステムのキッズパオ誕生

さて、お金もコネもない私たちが、考えたことはスポンサーを見つけることでした。 そのために、ママ200人に「可愛いわが子でも、時には離れて自分の時間を持ってみたいと思いませんか?」というタイトルでアンケートを決行。 その結果、なんと、約80%のママが「美容室に行くときに困っている」ということがわかり、美容室にアタック。

なんと、ラッキーなことに1カ所目の美容室で「あなたたち、面白そうね。うちのビルの3階があいているから、貸してあげるわ。」と、理由を問わないで預かるシステムのキッズパオ誕生。となったのです。 (その時、美容室に来られるお客さんのお子さんを無料でお預かりして、かわりに家賃を超格安にして貰っていました。)

さて、無事オープンし、「ママたちの手でこんなサービスが始まりました。」と、テレビや新聞に取り上げられたのも束の間。 この年、インフルエンザが大流行し、お客さんが来ない日が続くようになりました。

わずかな貯金をはたいて始めたのだから、お客さんが来なくなると、もうタイヘンです。 そんな時、ある方から「寒くて外に行かれないから、ウチに来てほしい・・」と電話がかかってきました。 『なあんだ!お家で保育するという方法もあったなあ・・』とベビーシッターの勉強を始めたのです。

中でも、産前産後のお手伝いをする産褥サービスは、それまで、ほとんどのお客様が家政婦さんに頼んでいたそうで、お母さん以上も歳の離れた家政婦さんに気を使っていたお母さまに涙を流して喜んで頂いたのが、忘れられません。 私たちもちょっとだけの先輩なのにね。

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2年目の再出発!新しい船出!

ようやく順調になった2年目のある日、ビルのオーナーの美容室から「あなたたちも一人前になったから、出て行って欲しい」と持ちかけられました。 目の前真っ白!でも「やるしかない」早速、物件探しを始めるのですが、お金がないことに気づき銀行へ。

その時、友だちから「国民金融公庫が国の銀行だから親切だよ。」と教えて貰い、行くのですが、「あなたがしていることは、公庫の融資対象からはずれている。福祉に関わる仕事だから、融資できない。」と言われたのです。 <まだ事業として認められていない>ということのようだ、と言うことがだんだんとわかってきたのです。 「ようし!」いつか事業として認められるようにゼッタイ頑張ると心に誓ったのでした。

そのころ、共同通信の記者をしているママがフラフラになって訪ねてきました。 昼間の保育園の保育時間だけでは、カバーしきれず困っている人がいることに気がついたのです。 そこで、私が目指したのは24時間対応できる保育システム。 何とか、融資をしてくれる銀行と新天地が見つかったのですが、ここで大きな壁。 一緒にしていた友人たちが「これ以上はもう一緒にできない。」と言ってきたのです。 理由は、主婦の域を脱するから。

加えて、わが夫の反対。そういえば、ウチの夫は亭主関白だったのです。彼の許容範囲(主婦である)では何をしても良いけれど、それを越えることはまかりならん…というのが主張で、話し合いは平行線。 とうとう「わたしはあなたの中だけでは生きられない」と大宣言してしまうのです。 夏の暑い頃でした。子どもたちが寝静まったあと、外が明るくなるまで話し合いは何日も続きました。

さて、その夏の終わり、彼は体重が7キロも痩せていました。 おかげで、ワンフロアが90坪もあるビルに移転。新しい船出です。

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マミーズファミリーの応援団長!「パオのパパさん」

24時間対応する保育システムと、どの時間に登園してもスムーズに保育にはいることができる「キッズ・パオ」に生まれ変わりました。 365日の内360日開園していることや夜間にも対応していることなので少しずつ、入園希望者が出てきました。 しかし、ほとんど休みなし、夜間保育が入った日には夜の睡眠も程々に新しい日が始まる、そんな日が続いていました。 広い保育室を子どもたちが帰った後、ひとりで掃除をする私を見かねて「もう、見てられん!」「エエッ!!?」ある日突然、夫が会社に辞表を出してきたのです。

そこから、二人三脚が始まりました。退職金でワゴン車を買い、二人で市内を送迎。 忙しいときには、私に代わって、彼が給食を作ってくれることもありました。 亭主関白だった彼が、「できる人ができる仕事をしたら良いんじゃないの。」と変貌していったのです。 スタッフやお母さんたちから「パオのパパさん」とセカンドネームもつけて貰って、パオには、なくてはならない存在に。 今では、誰も彼が亭主関白だったということを信じてくれる人はいません。

その後、クラシックのコンサートの託児サービスや企業にお勤めしている方のための提携サービスなど、営業に回り実現させたのは彼のアイディアです。マミーズファミリーの応援団長です。

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新たな命の誕生!

体調が悪い日が何日か続き、ハッと妊娠に気がつきました。と、同時に目の前が真っ白に。 念願だった南海放送本町学苑でのベビーシッター養成講座開講決まったばかりで、1年間は仕事を休めない。 また、1週間前に全国のベビーシッター研修会の開催を松山で引き受けたところ(その研修会の日と出産予定日は10日違い。もしかすると?)でした。要は仕事が軌道にのり始めたのです。 今、休むわけにはいきません。

しかし、上の娘二人とも妊娠中は、流早産のため安静にしなければならない入院期間が長く、今回は36歳という年齢もあり、妊娠を続けるのは困難な状態でした。 そして、何よりその年はドイツに留学する大きな予定もありました。夫と話し合い、彼は私の仕事を優先に考えてくれました。(というより、仕事をしたいという気持ちを「縛れない」と。)

ところが、仕事中に切迫流産のため病院に運ばれたのです。 そこへ、娘二人が「ママ、赤ちゃん生まれるの?」と飛び込んできました。「うれしい!」もう、満面の笑みです。

この子たちを悲しませるわけにはいきません。あっという間に産む決心に変わりました。 「何ためにベビーシッター会社をしているんだい?育児中でも、母親でも、夢を実現することができるように、手伝うためじゃなかったのかい?まずは自分で実践せんかい!」と夫の励まし。 私が苦しんでいる間は言えなかったけどね…とも。

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ひとつひとつ夢の実現に向かって

妊娠中は三度も入退院を繰り返したもののスタッフや家族に支えられ、晴れて、その年の晩秋、末娘の明瞳(あみ)が誕生しました。

実は、この末娘、明瞳(あみ)の出産体験を翌年の愛媛県経済諮問会議「少子高齢化社会」のメンバーに選ばれたときに発言することになったのです。 多くのお母さんの代弁者として。

『出産をためらうのは、子どもができることによって生活が変わってしまうことへの不安や女性に家事と育児の負担がかかってしまうためだということ。 しかし、誰もが社会との接点を持ちたいと思っている。 そのためにはショッピングセンターや百貨店、コンサートなどどこへ行っても託児サービスがこれからは必要なんだ。』と、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしながら、お話ししたのです。

そこへ、同席されていた「お菓子のハタダ」の社長さん、畑田氏が「さっきの話よかったよ。ウチのかみさんもいつも同じように言っているよ。」と声をかけて下さいました。 このご縁で、畑田社長には、新居浜のショッピングセンターができる時に教えていただき、ショッピングセンターでの時間制託児ルーム「キッズパオ」開設のきっかけとなったのです。

始めた当時からマミーズの目標は、「お母さんたちに預ける抵抗感と罪悪感をなくして貰う。」でした。 そのためにはショッピングセンターでの保育ルーム開設が、夢のひとつ。なんと言っても、買い物や食事の時に子どもを預けるなんて、都会的でしょ? こうして、ひとつひとつ夢の実現に近づいてきました。

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